2011年2月27日日曜日

LOUIS VUITTON(ルイヴィトン) ポーチ トゥルースロンド

ルイ・ヴィトン (Louis Vuitton Malletier) はフランススーツケース職人(マレティエ)ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton, 1821年8月4日 - 1892年2月28日)が創始したファッションブランドLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループの中核ブランドです。LVMHの2008年の売上高は239億ドル。(wikipedia)



写真のポーチの名称はトゥルースロンド。
型番はM47630です。 1896年に初めて誕生して以来、ルイ・ヴィトンのシンボルとなっているモノグラムライン。 バッグの中の小物整理用に便利です。 

香水(オードトワレ)のお買取り

紀元前1850年頃に香水を製造していたとされる最古の工場跡地はギリシアで発掘されています。
アルコールに溶かす香水が作られるようになったのは、イスラム社会でアルコールの製造法がヨーロッパに伝えられてからです。それまでは油脂に香りを吸着させた香油やポマードが使用されていました。14世紀ハンガリー王室で使用された、ローズマリーを原料としたもの(ハンガリアンウォーター)がそれです。その後、ルネサンス期のイタリアで発展し、ヨーロッパ各地に広まっていきました。(wikipedia)

当店では、未使用の香水をお買取りしております。

写真の商品は右からグッチの バイ グッチ オードトワレ 30mlで、 GUCCIのクリエイティブデレクターが描く女性像(グッチガール)を表現した香りです。モダンにアレンジされたシプレーの香りはセンシュアルな力強さに秘められた優しい女性らしさを醸し出しています。フェミニンなピンクのボトルも魅力的ですね。

中央は、CHANEL CRISTALLE シャネルクリスタル100ml。1974年の誕生以来、フレッシュフローラルの代表として定番的な人気のフレグランスです。清々しいグリーンとほんのりしたフローラルが溶け合う香りは活動的で開放感にあふれた香りです。リフレシュのための香水としてオフィスでも使用できます。


左は、CHRISTIAN DIOR purepoison クリスチャンデイオール  ピュアプアゾン30mlです。フローラルの女王ともいわれるジャスミンの中でも、インド産のサンバックジャスミンを使ったピュアで魅惑的な香りです。

シャネルのポシェット

シャネル (Chanel) は、ココ・シャネルが興したファッションブランドです。ウーマンリブ的な「古い価値観にとらわれない女性像」がブランドポリシー。喪服用途であった黒い服を「リトル・ブラック・ドレス」として広汎的に広め、また自立した働く女性のためのジャージ素材、ツイード素材のスーツを打ち出すなどファッションの歴史を次々と刷新していきました。


日本においては、1994年、シャネルブティック本店(銀座並木通り)を開店。次いで1996年に大阪・心斎橋店を開店。心斎橋店が日本において当時最大の店舗でしたが、2001年に東京・表参道店が開店し、こちらが日本最大となりました。2004年12月には、銀座3丁目に旗艦店となる銀座シャネルビルがオープンしています。(wikipedia)


写真の商品はシャネルのポシェットです。ギャランティカードが無く使用感がありましたが、お持ちいただいた他の商品とのおまとめで、お買取りさせていただきました。



2011年2月24日木曜日

K10の壊れたカフス等・・・

壊れたカフスや、古いネクタイピンもお持ちいただければ丁寧に査定させていただきます。
写真はK10のものでした。

2011年2月20日日曜日

54gのK18ネックレス

 金の純度は、24分率で表されます。その場合、純金は24金、24カラット (Karat)、あるいは、K24と表します。そして、金の含有率に従い数値を変えているのです。例えば、18金は金の含有率が18/24、すなわち75%であることを表します。なお、金の品位をカラットという場合は宝石重量を表すカラット (carat) とは異なるものです。

日本では99.99%以上の純度の金を24カラットと表示して良いことになっています。
このほか、純金の度合いを0.995などのように0から1の間の数値で表すこともあります。

カラットという品位は現在でも金の装飾品や万年筆のペン先の純度表示に使われています。

金の純度を24分率で表す単位のことで、24k(24金)とは純度の24分の24を表す(純金)。22k(22金)なら24分の22 (91.67%)、18k(18金)なら24分の18 (75%)。(wikipedia)

本日お買取りさせていただきました18金のネックレスは54gの大変重いものです。
お買取り価格もご満足いただきました。

2011年2月18日金曜日

太政官札(だじょうかんさつ)

 太政官札(だじょうかんさつ)は、明治政府によって明治元年閏4月から明治2年5月まで発行された政府紙幣。金札とも呼ばれました。日本初の全国通用紙幣です。通貨単位は江戸時代に引き続いてのままでした。1879年明治12年)11月までに新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通しました。明治政府は戊辰戦争に多額の費用を要し、殖産興業の資金が不足したので、参与兼会計事務掛三岡八郎(のちの由利公正)の建議によって明治元年4月19日の布告により、「通用期限は13年間」との期限を決めて太政官札を発行しました。総額4,897万3,973両1分3朱製造されましたが、実際に発行されたのは4,800万両であり、97万3,973両1分3朱は発行させずに焼却しました。

当初、国民は紙幣に不慣れであったこと、また政府の信用が強固では無かった為、流通は困難をきわめ、太政官札100両を持って金貨40両に交換するほどでした。このため政府は、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたり、諸藩に石高貸付を命じるなどの方法を講じました。これらの政策や二分金の贋物が多かった事などから、信用が増加したために流通するようになりましたが、今度は太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになりました。
政府は明治2年5月28日の布告で、太政官札の発行を3,250万両に限定し、さらに通用期限を5年間に短縮し、もし期限にいたって交換未済のものがあるときはこれに対し1年で6%の利子を交付することを約束しました。
政府は1871年明治4年)、新貨条例を制定しました。通貨単位を「両」から「圓(円)」に切り替えて本位貨幣金貨とし、金本位制度を採用することにしました。その際に旧1両を新1円とする事を定めています。
政府は1872年明治5年)8月、6年3月、7月、の布告により、金札交換公債證券(記名證書、1,000円、500円、100円、50円の4種。利札證書、500円、100円、50円の3種)に換えて回収する方針をとりましたが、これによって公債証券に換えられたのはごくわずかで、大部分は新紙幣である明治通宝との交換でした。
この商品のオークションは・・・・・・
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d114287920

2011年2月15日火曜日

喜平のネックチェーン

喜平(きへい)の名前の由来には1.騎兵隊が、懐中時計の鎖に使用したところから、2.はじめてこの鎖を作った人の名前から(鈴木喜平という名前から)などさまざまな説があります。


今回のお買取りは、六面ダブル喜平50g・18Kです。ずっしりと重いネックチェーンです。お値段も頑張らせていただきました。

2011年2月14日月曜日

ウェッジウッド オズボーン 27cmのディナープレート5枚


ウェッジウッド(Wedgwood & Corporation Limited)はイギリス陶磁器メーカー。ジョサイア・ウェッジウッドによって1759年に設立されました。
ロイヤルドルトン社と並ぶ世界最大級の陶磁器メーカーの一つです。主に高級食器を製造・販売していますが、アクセサリタオルテーブルクロスなども扱っています。
日本には子会社としてウォーターフォード・ウェッジウッド・ジャパンがあります。イングランドの陶業は17世紀までロンドンブリストルで生産されるデルフト陶器が主でありましたが、18世紀に入ると上質陶器やストーンウェアがこれを代替していきました。これらの製造には良質の粘土が必要であり、イングランド中部のスタフォードシャー州は良質の粘土や石炭を産出する事などから陶業が急激に発展しました。

ジョサイア・ウェッジウッドはこの地方の陶工の息子として1730年に生まれ、若いうちから製陶技術や化学図版などの知識を評価されていました。そして数回の共同経営を経た後、1759年にバーズレム(Burslem)にある工場を叔父から引継ぎ、独立・開業した。この際に従兄弟のトーマスを管理者として雇用しています。
このアビー・ハウス工場(Ivy House Works)で開発した緑色の釉薬を用いた陶器は好評を博し、3年後の1762年には同じくバーズレムにあるブリック・ハウス工場(Brick House Works)に移転しました。ここでジョサイアは、会社の代表作となる、エナメルを用いたクリーム色の陶器を完成させました。これはシャーロット王妃ジョージ3世の妻)にも納められ、「クイーンズウェア(女王の陶器、Queen's Ware)」という名称の使用が1765年に許可されました。
1769年にはリバプールの商人であったトーマス・ベントレー(Thomas Bentley)を共同経営者として迎え入れると、トーマスの人脈などもあって会社は発展を続けました。クイーンズウェアはヨーロッパのみならずアメリカ大陸にも出荷され、1774年にはロシアエカチェリーナ2世から944点の「フロッグ・サービス」と呼ばれる陶磁器セットの注文を受けています。

このような中でジョサイアは再び工場を移転することにし、ニューカッスル・アポン・ライム(Newcastle-upon-Lyme)とハンレー(Hanley)の中間の地を選びます。この土地はイタリア南部の地にちなんでエトルリアと命名され、工場名もエトルリア工場となりました。1769年の操業開始後もしばらくはブリック・ハウス工場で低価格の実用品の生産が続けていましたが、しばらくすると全製品が移管されてブリック・ハウスは閉鎖されました。
この頃、在庫の増加が資金繰りを圧迫して経営を危険にさらすことをジョサイアは初めて理解し、当時としては先進的な原価計算を取り入れるようになりました。これによって高級品の生産に対していたずらにコストが増加してしまうことを防いだ、と考えられています。
エトルリア工場では、まずブラック・バサルト(Black Basalt)が開発されました。これは、当時スタフォードシャー州で作られていた黒色陶器を改良したもので、今日まで会社の主力製品の一つとなっています。さらに1774年にはジャスパーウェアが開発され、1790年にジャスパーによるポートランドの壺が作製されました。この壺は1878年にウェッジウッド社の商標に組み込まれ、コーポレートアイデンティティの重要な要素となっています。
ジョサイア(一世)の死後、その息子であるジョサイア二世が経営を引き継ぎました。二世はボーンチャイナの製造を試みましたが生産はすぐに中止され、1878年にボーンチャイナ生産は再開されました。以降、三世から五世まで経営は世襲され、1895年にジョサイア・ウェッジウッド・アンド・サンズ(Josiah Wedgwood & Sons)として会社が法人化されました。(wikipedia)

写真のお買取り商品はオズボーンの27cmのディナープレート5枚です。

この商品のオークションは情報は・・・・・・・・・・
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h150865527

2011年2月13日日曜日

バカラ (Baccarat)のオニキスクロス

 バカラ (Baccarat)は、フランスのガラスメーカー・ブランド名です。30%の酸化鉛を含むフルレッドクリスタルクリスタルガラスの一種)製品を製造するメーカーとして、世界的に有名で、製品は日本・アメリカをはじめ世界中で販売されています。

製造された商品のうち消費者の手に渡るのは6~7割。残りは品質基準の高さゆえに破棄されてしまいます。フランスの「M.O.F」(「最優秀職人」の意)を50人以上輩出している。
ルイ18世を皮切りにフランス王室はもちろん、イギリス王室・ロシア皇室などのヨーロッパの王室はもちろん、モロッコ王室・タイ王室、さらに日本の皇室までも、バカラを注文しています。特に1921年、当時皇太子であった昭和天皇は、旅行でパリのバカラショップを訪れたのことです。
商品は、テーブルウェア(各種グラス・デキャンタ等)はもちろん、アクセサリー・花瓶・香水瓶・置物・シャンデリアなどに及んでいます。(wikipedia)



商品はオニキスのクロスです。
オニキスは「魔除け、希望、意志」を象徴するパワーストーンです。闇の中に一筋の光が差すような深い輝きで、ラグジュアリーな宝石としても使われる美しい石です。古くから悪を退けるといわれ、古代ペルシャやインドでは悪霊から身を守るお守りとして用いられました。
オニキスは魔除けとして用いられる一方、邪念やマイナス思考を振り払い、明るい未来を指し示してくれる希望の石ともいわれています

モントレス・デ・ラックスのクロノグラフ

ゴージャスかつラグジュアリーな時計」という意味を持つ〈モントレス・デ・ラックス〉は、イタリアンウォッチの斬新なデザインを世に知らしめた先駆けのデザイナー、フルヴィオ・ロッチと、機械式時計中興の祖として一身に尊敬を集める故ロベルト・カルロッティの息子、エミリーオによって、世界の流行発信地ミラノで2001年に創業された新進気鋭のブランドです。
未使用状態でのお買取りです。








ロエベ Loewe のスウェードショルダーバッグ

ロエベ(Loewe)は、皮革製品で有名なスペインブランド。現在はルイ・ヴィトンなどに代表されるLVMHグループに属してます。
1846年、マドリード市内のロボ通り(現、エチェガライ通り)にて、ルーツとなる皮革工房が数人のスペイン人職人によって開かれましたが、当時は、レザーケースやバッグ、財布、葉巻入れ、フレーム、コインケース、煙草入れといったレザー製品のみを扱っていました。 その後の1872年、当時ドイツの職人であったエンリケ・ロエベ・ロスバーグ(Enrique LOEWE Roessberg)は、マドリードへ訪れてエチェガライ通りのこの工房を見学した際、職人達の技術、そして素材や品質の高さに感銘を受け、パートナーとして工房で働く事になりました。 彼らの手掛ける製品がマドリードの貴族達を魅了するようになり、それにともなって工房の規模も徐々に大きくなり、1892年には、当時マドリード市内の流行の発信地として名の通っていたプリンシペ通りにて、店舗併設型の工房であるE.ロエベブティックを開きました。 この頃より、製品全てにLeather Goods Factory(レザーグッズファクトリー)というエンブレムが施されるようになり、また、婦人用ハンドバッグの製作もスタートされました。 1905年には、当時有力な顧客であったコンキスタ公爵夫人によってスペイン王室に紹介され、高品質でオリジナリティ溢れるロエベの製品が高く評価された事により、アルフォンソ13世から王室御用達の称号を授かりました。(wikipedia)
写真の商品はスウェードのバッグです。使用感もなく大変きれいな状態でのお買取りでした。


この商品のオークション情報は・・・・・・・・・
http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r75457301

2011年2月5日土曜日

大阪万博、EXPO'70 記念メダル

日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition)は、国際博覧会史上アジアで初めて開催された日本で最初の国際博覧会。大阪府吹田市の千里丘陵(約350ha)において1970年3月14日 - 9月13日まで183日間、当代一の規模を誇りました。別名:大阪万博、EXPO'70。しばしば万博と略称されています。主催は、財団法人日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は皇太子明仁親王(2010年現在今上天皇)、名誉会長は当時の内閣総理大臣、佐藤栄作。
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、総入場者数は6,421万8,770人でと2010年中国・上海で開かれた上海万博(7278万人)に抜かれるまで、万博史上最多を記録し、国際万博史上初めて黒字となりました。戦後、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとなりました。日本においては東京オリンピック(1964年)以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用されました。また大阪市など会場周辺市街地では国際万博開催への整備がなされ、道路や地下鉄建設など大規模開発が進められました。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われました。
人気パビリオンでの数時間の行列など大量の人で大変混雑し、特にアポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かったようです。またその異常な混雑ぶりから、万博のテーマをもじって『人類の辛抱と長蛇』と揶揄されたこともあります。

愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものですが、その後の国際博覧会の愛称にも引き継がれています(科学万博(つくば博)、花の万博(大阪花博)、愛知万博(愛・地球博))。
なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京都で開催される予定であり、日中戦争の激化などを受けて開催延期となった「紀元二千六百年記念万国博覧会」の前売り券は、代替としてこの万博で使用できることとなりました。その結果約3000枚が使用されたとのことです。(wikipedia)


昨年もこの3点セットを数点お買取りさせていただきましたが、金(K18)13.6g 銀18.6g 銅16gですので、18金メダルがお買取り価格に大きく反映いたしました。




ミュンヘンオリンピック記念銀貨10マルク

ミュンヘンオリンピック(Games of the XX Olympiad)は、1972年8月26日から9月11日まで、西ドイツ(現・ドイツ)のミュンヘンで行われた夏季オリンピックです。オリンピック史上最悪の悲劇と言われるミュンヘンオリンピック事件が発生したことで知られています。

この大会から、ハンドボールが再開されました。
開会式に、選手宣誓だけでなく、審判宣誓も行うようになったのも、この大会からです。
日本男子体操が最も強さを誇った大会でもあります。全8種目24個のメダルのうち、16個を日本が獲得。団体では、ローマ・東京・メキシコに続いて4連覇。個人総合と鉄棒と平行棒では金銀銅メダル独占。鉄棒金メダルの塚原光男が開発した「月面宙返り」が、以後世界の体操界で長年使用される革命的な技となりました。
日本男子バレーボールは大会前から日本国内の話題をさらい、テレビ番組「ミュンヘンへの道」なども放送されていました。準決勝の対ブルガリア戦でセットカウント0-2からの奇跡の逆転劇を演じ、金メダルを獲得しています。
水泳のマーク・スピッツ(アメリカ)が出場した全種目(自由形100m・200m、バタフライ100m・200m、リレー400m・800m、メドレー400m)の7個の金メダルを獲得。北京オリンピックでマイケル・フェルプスが8個の金メダルを獲得するまでは1大会での最多金メダル記録でした。
男子バスケットボール決勝(アメリカ対ソ連)では、この種目の採用以来無敗を誇ったアメリカが終了間際に逆転され初めて敗れる波乱。ソ連が逆転に成功するまで3度も試合の最後をやり直した(タイムを戻してのリプレイ)ことを不服としたアメリカチームは、表彰式の出場と銀メダルの受取を拒否しました。

≪ミュンヘンオリンピック事件≫
会期中の9月5日、パレスチナゲリラが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃。イスラエル選手団のレスリングコーチとウエイトリフティングの選手を殺害した後、9人を人質にした。救出は失敗し、銃撃戦の末、人質9人全員とゲリラ5人、警官1人が死亡する大惨事となりました。(wikipedia)

15.65gで直径33㎜、品は625のようですので手に持つと軽い感じです。
5枚セットでお買取りさせていただきました。

東京オリンピック記念貨幣 1000円

東京オリンピック記念貨幣 (とうきょうおりんぴっくきねんかへい)とは、1964年(昭和39年)10月10日より開催された、第18回夏季オリンピックである東京オリンピック大会を記念して、発行された銀貨で、記念貨幣としては日本初のものです。1000円銀貨および100円銀貨の2種類が発行されました。

日本で初の開催となった第18回夏季オリンピック東京大会の記念貨幣の発行が、1964年2月14日、池田首相の決断により閣議決定されました。当初は100円銀貨を発行する計画でしたが、当時高度経済成長真っ只中にあり、通貨需要が飛躍的に伸び通常貨幣の大増産を行っている中、造幣局における100円銀貨の製造能力の関係上、直径、量目および材質は100円通常貨幣と同等のものとし、1964年度の100円貨幣発行計画分8000万枚を全て記念貨幣とし、既存の設備を流用して図案のみ変更して発行することとなりました。また当時、電子部品配線用および写真感光材料など世界的な銀需要の伸びの背景による銀貨発行の制約もありましたが、東京オリンピック組織委員会の強い要望により、より高額でサイズの大きな銀貨の発行が検討された。
当時、臨時補助貨幣として規定されていた有効な貨種は1円、5円、10円、50円、100円の5種類であったため、1000円の額面の貨幣を発行するためには特別立法が必要でした。そのような状況の中4月20日に「オリンピック東京大会記念のための千円の臨時補助貨幣の発行に関する法律」(昭和39年法律第62号)を制定するに至り1000円銀貨の発行となりました。造幣局内での貨幣製造は繁忙を極めていたため、この1000円銀貨製造では円形作成までの段階の作業は民間業者に委託されたそうです。
発行枚数は、1000円銀貨は各世帯に1枚、100円銀貨については国民一人当たり1枚を目安として決められたものでした。100円銀貨の図案は公募によるもので2月21日に新聞、テレビ、ラジオ、官報などで広報され、4月6日に応募作品3万0512点の中から聖火および五輪をデザインに取り入れた前島昌子の作品が1席に入選となり採用されました。1000円銀貨の図案は造幣局内で作成され、日本を象徴する富士と桜をデザインしたものです。(wikipedia)

おたからや幕張本郷店 新メンバー

おたからや幕張本郷店に新メンバーが入店しました。みなさんよろしくお願いいたします。
年末年始以外は、年中無休で頑張ります!

ご自宅に眠っている金、プラチナ、切手等是非お持ちください。